ミルクティ

 

 

通り雨が濡らしたアスファルト

夏の匂いを放ち

今から本格的な夏が来ることを予感させた

 

夏期講習に埋め尽くされてはいるが

「明日から夏休み」というだけで

こんなにも心が踊るのはなんでなんだろう。


世界はこんなにも美しく

世界中から祝福されているかのようだ。

刑務所から出所する時もこんな気持ちなのかな。


一生このまま夏休みが始まる前日に

タイムリープしたいくらいだ。

 

浮かれていた。

自分の家を通り過ぎても気づかないほどに浮かれきっていた。

 


気づけば家から5分ほどの高台にある公園に到着し、私は夏休みの開放感からか履いていたスニーカーを脱いでみた。


「明日から夏休み」に浸り、満足げな私にどこからともなく声をかけてくる人が居た。

 

「そこの女子学生」

 

声をかけられて振り返ると、そこには若い男の人が居た。

この辺では見かけないタイプのその人は、髪も肌も白く近寄りがたい感じの人だった。


「はい」


知らない大人とは喋ってはいけないと、警戒心を丸出しにした私にその男の人はこんな事を言った。


「死ぬのか? そっから飛び降りて」


その人は私の脱いだ靴を指差して、その指した指でフワリと弧を描き下に向けた。


私は驚き「死にません」と、答えた。


その人はその答えに納得したのか、そもそも答えなんか求めて無かったのか、別の質問をしてきた。


「ここら辺には猫が多いのか?」


猫?


私は少し考えてから「はい」と、こたえた。


男の人は少しだけ笑ったように見えたけど、すぐに笑いを引っ込め「困る」と、言った。


私は警戒心をむき出しにして「すみません」と、その場を去ろうとした。


「浮気しない男なんだよねオレ」


その人は本当に困ったみたいにそんな風に言うから私は思わず


「知らないです」と、答えてしまった。


男の人は少し怒ったみたいな顔になり「しないよ?」と、自信満々に答えた。


その男の人が言うには、自分には愛するピンクという猫がいて、その猫以外には愛想を振りまかないと決めているとの事で、引っ越しして来たばかりなので、この辺に猫が居ないか偵察をしているらしかった。


そうですか。


私がそう言い終わらないうちにその男の人は、結構離れた場所に猫を発見したらしく「猫! あっ!」と、言い残し、その猫の方へ一目散に走って行ってしまった。


私はぺこりとお辞儀をして、急いで靴を履き、逃げるようにその場から立ち去ったのだった。

 

 

その日を境に、何故だか私はその男の人と一緒に過ごす事が多くなった。


不思議なほど、その男の人は私を退屈させなかったし、夏期講習以外の予定も特になかった。


『夏休み』という期間にはなんだって受け入れてしまうナニかがあるのかもしれない。

 


夏期講習を二回行ったあたりからその男の人と私との関係性がおかしくなった。


私をその男の人は『鈴木』と呼び、私はその男の人を『佐藤』と呼んだ。


佐藤はビックリするほど暇らしかった。


中学生の私くらいしか喋り相手が居ないらしく、私を見つけると犬のように走り寄ってきた。

 

最初は少し怖かったけど、次第に私は佐藤に敬語すら使わなくなった。


佐藤はこの辺りの猫にあだ名をつけては、私に伝えてきた。


『ダルメシアン』とか、犬種の名前すら恥ずかしげもなくつけるような佐藤だった。


私は佐藤のあだ名のセンスを気に入っていたし、佐藤はそれを知っていた。


新しい猫を発見すると、佐藤はエヴァンゲリオンの挿入歌を歌う癖があった。

荘厳な歌を佐藤が歌うとなんとも間抜けな感じがして、それも私は気に入っていた。


エヴァンゲリオン好きなの?と、聞いてみたら「新しい猫のあだ名候補か?」と、佐藤は素っ気なく答えたのだった。

 

 

4回目の夏期講習をサボったのは、佐藤が熱を出し顔を見せなかったから。


私は佐藤のマンションに上がり込み、殺風景な部屋でマリオカートをした。


佐藤は文句ばかり言って、最後は自分でコントローラーを握っていた。

佐藤はいつものエヴァンゲリオンの歌を口ずさみ、私はその歌がマリオカートと案外合うんだなと感心した。

 


私はふと気になった事を口にした。


「佐藤、猫のピンクは?」


佐藤はコントローラーを握ったまま「一年前に死んじゃった」と、答えた。


佐藤はマリオカートで素晴らしい走りを見せ付けながらこう言った。


「鈴木、ピンクはなんで死ななきゃいけなかったんだ? あんなにいい奴だったのに」


そしてこう付け加えた


「もっと死んだほうがいいやついっぱいいるだろ?」

 

佐藤は「ああ、鼻水が止まらん」と、ティッシュで鼻水ともう少し上も抑えた。


私は佐藤が泣いてるような気がして、胸が少し痛くなった。

 

 

佐藤がマリオカートでカーブを曲がるときに少し体が傾くのと一緒に佐藤の白髪が揺れた。


「佐藤のそれ地毛?」


佐藤は「おしゃれ」と、言ってのけ、私は大きな声で笑った。


何故だか佐藤も爆笑し、いつもの佐藤に戻って嬉しかった。

 

8回目の夏期講習をサボる頃、私はまるきり罪悪感を失っていた。


罪悪感を失うついでに、髪を赤く染めて佐藤を驚かしたいと意気込んだ。


赤く染めた髪はなんだか大人っぽくて「おしゃれ」だった。

 

赤く染めた髪を佐藤に早く見せたかった。

そして少し照れくささもあった。

 

 


だけどその次に会った佐藤は私の想像とは少し異なる反応を見せた。


私の変化に気づかないふりをしたのだった。


佐藤はいつものように、猫のあだ名当てクイズを出すだけで、私の髪については触れてもこなかった。


私はシビレを切らし、自分から伝える事にした。


「髪染めてみた」


佐藤は微妙な表情で「ああ! ほんとだ!」と、とても下手な演技だった。


「変かな?」


私は意地悪な気持ちになって佐藤に問うた。


「大丈夫」


佐藤は「似合う」とは言ってくれず、私は少し悲しくなってこんな事を言った。

 

「佐藤の白と私の赤を混ぜたら「ピンク」だよ」

 

佐藤は少し悲しそうな顔になってこう言った。

 

「鈴木よ、それはピンクじゃない、・・・ミルクティだ」

 

確かに紅茶色の私の髪と佐藤の白を混ぜたらミルクティだった。

 

 

佐藤に乙女心をわかるとは思ってなかったが、それでも少し胸がチリリと痛んだのを覚えている。


佐藤は私のそんな気持ちを知ってか知らずか、新しく発見した猫に『エヴァンゲリオン』と、あだ名をつけたのだった。

 

 

 

夏期講習に行く事すら忘れた頃、佐藤がまた姿を見せなくなった。


私は佐藤の家の鍵のありかを知っていたから佐藤の家に入ることは簡単だった。


佐藤は家のどこにも居なかった。


久しぶりに尋ねた佐藤の部屋はやはり殺風景で、何とも寂しくて私は佐藤の歌うあの歌を口ずさんでいた。


「フロイデ シェーネルゲッテル フンケン トホテル アウス エーリージウム…」


ベートベン交響曲第9番「喜びの歌」とも言うんだと佐藤が教えてくれた。

 

 

とりあえずベッドに腰掛けると、バサっと、何かが落ちた。


袋に入った写真の束だった。


人の写真を見るもんじゃないと、何処からか聞こえた気がしたが好奇心には勝てなかった。


だけど、数枚見るうちに何処からか聞こえた声の言う通りと、私は思い知ったのだった。


ピンクだと思われる猫の写真と、ピンクを抱く真っ赤な髪の綺麗な女の人の写真。

 


そうかそうか

彼女の髪と混ぜたらキレイなピンクだな


そうかそうか

私は佐藤が好きだったんだな

そうか。そうか・・・。


涙は出なかった、ただなんとなく気恥ずかしかった。

 


夏期講習をサボっていたのが親にバレて、私はサボらず残りの夏期講習に通った。


佐藤は姿を見せず、夏休みが終わろうとしていた。


私は未練がましくも佐藤の家の前をウロウロしたりはしたが、もう部屋には勝手には入ることはなかった。

 

 

最後の夏期講習が終わったある日、


佐藤の部屋のドアが開いているのを発見して、私はドアに走り寄った。


勢いよく部屋に入ると、知らない女の人が居て驚いた。


「間違えました」と、部屋を出ようとすると、女の人に呼び止められた。


「鈴木さん?」


私は立ち止まり「はい」と、答えた。

 

その女の人は佐藤の妹だと言って、笑顔から急に泣き顔になった。

 


嫌だ。


すごく嫌な感じ。


きっと今から嫌な事をこの人は言うから気をしっかり持たなきゃと、私は歯を食いしばった。

 

 

『佐藤が死んだ』と佐藤の妹は言った。


鈴木さんにはお世話になってとか、言っていた気がするがほぼ何も聞こえなかった。


「佐藤が死んだ」以外何も聞こえなかった。


私はその場にへたり込んで、佐藤の妹にとても心配させた。


「佐藤が死んだ」


私は消化できない言葉を何度も口に出してみた。


佐藤の妹はただ心配そうに私が「佐藤が死んだ」と言うたび、「うんうん」と、うなずいてくれた。


玄関先で座り込む私に、佐藤の妹は佐藤のことを色々教えてくれた。

 


佐藤は心を病んでいた事

佐藤は佐藤ではなかった事

佐藤は知らない町の海で死んだという事

佐藤の恋人が佐藤を壊したという事

佐藤の恋人が佐藤を残して死んだ事

佐藤の妹が佐藤の面白さを知らなかった事

佐藤はいつ死んでもおかしくなかったという事

佐藤は鈴木という女子中学生を大事に思っていた事

 

私は笑ってしまうほどに何も佐藤のことを知らなかった事

 

 


「そうだ」と、佐藤の妹は玄関先でもうすっかり寝転がってしまっている私に携帯の写真を見せてくれた。


それは茶トラの子猫の写真だった。


「お兄ちゃん、猫が好きだったから家で猫が生まれたとラインしたの」


いつもラインは面倒臭いと既読スルーする佐藤からめずらしく返信をしてきたと言った。
  

その時のラインを私に見せてくれた。

 

「オレが名付け親になってやろう」

「ミルクティ」

 

その時、私は初めて声を出して泣いたのだった。


佐藤の妹も一緒に声を上げて泣いてくれた。


「ミルクティって言いにくいよね?」

 

佐藤の妹も佐藤と同じくらい面白くて

泣いてるんだか笑ってるんだか

私はわからなくなった。

 

ある日みた夢のような

その細く険しい道は一人しか通れなかった。

 

心臓の音が重なるように鳴り響くのに

 

その先にある光を目に焼きつける事が出来たのは、僕ではなかった……

 

 

 

 

 

 

 

 

ここには様々な事情を抱えた人々が暮らしている。

 

小さな芝居小屋の中の一人芝居のように、人々は日々をただただ、暮らし続けている。

 

 

 

そんな人々の生活に介入出来るのはただ一人。

 

タキシードにシルクハットというヘンテコな格好の人物一人だけ。

 

名前も少し変わっていて、ココに訪れた人にはかならず渡す名刺にはこう書かれている。

 

 

 

「夢前案内人★ムシュリ」

 

 

 

タキシードの裾をサッとなびかせ、少し高いキーの声でこう言うんだ。

 

 

「夢前案内人、ムシュリでございますっ」

 

 

その後、彼は分厚い書類の束から人々の名前を探し出し、ココでの生活について何度も言い続けてきた言葉をスラスラと並べる。

 

 

「ええっと……○○さんですね? ははぁそうですか。何がなんだか解らないと? ええ、みなさん大体そうおっしゃいます。ご心配なく、誰もがそう言うんです、バカの一つ覚えみたいにね!!それではまず、心を落ち着けて聞いて頂きたいんですが、ココは『夢の中』です。はっは~ん、ああ、そっか! 『夢か!』って納得して頂いたみたいですが、そのニュアンス少々違っているんです。確かにココは『夢の中』ですが、俗に言う『夢の中』とは趣が異なるのです」

 

 

 

この辺で大体の人々はムシュリの話を聞かなくなる。そしてこの辺で大体ムシュリは、イライラしてくるのだ。

 

 

「あなたね、なんですか? その態度は! それが人の話を聞く態度ですか? 私はね、この道何十年のベテランですよ! 私の助けが無ければあなたココでの生活はもう生き地獄だって気付かないんですか!!!」

 

 

イライラし過ぎて肝心な事を言い忘れるムシュリの補足をさせてもらうと、ココは夢から覚めるのをやめた人々が訪れ、夢から覚める為の準備をする場所なのだ。

 

 

ムシュリが説明しなくても、実は誰もがホントはココが何処なのか知っている。

 

 

 

それを知ってか知らずか、ムシュリは自分の役割を吐き捨てるように言い放つ。

 

 

「さっさと帰り道を探すんです、良いですか? 私はと~っても忙しいんですからね! 」

 

 

 

誰もが悲しみや苦しみを抱えてるはずなのに、ココで過ごす人々はみんななんだかとても楽し気で、ずっと目が覚めなくても良いのではないかと思ってしまうけど……ムシュリはそれを許さない。

 

 

「ココでの1日は現世の3日に相当します。あなた一体現世で何才になったかご存じで?」

 

 

「私の言葉を何度聞き流せばあなたは……。頭の中腐ってるんですか?」

 

 

 

 

 

そう、ここは夢の中なんだ。

 

現世の身体は眠ったままどこにも行けない。

 

ココでの生活を続けるって事は多分イケない事なんだろう。

 

 

 

 

……僕?

僕は……誰なんだろう?

 

 

 

 

 

目が覚めるとそこにはタキシード姿のムシュリが立っていた。

 

僕が不思議そうな顔をして眺めてるとムシュリは僕のおでこに手を当ててこう言った。

 

 

 

「ヒデオさん、少し変ですよ」

 

……誰?」

 

「誰って……ムシュリですよ、夢前案内人の」

 

「ムシュリ?」

 

 

 

すると、ムシュリは又僕のおでこに手を当てて顔を覗き込んだ。

 

 

「ヒデオさん、とぼけたって無駄ですよキャラクター変更したって私の目はごまかせません。あなたにはホント困らせられておりますが、私の意地に賭けても絶対夢から覚めて頂きます」

 

「僕があなたを困らせてる?」

 

……まだそのキャラで? ま、その気ならそれで構いませんが」

 

……ごめんなさい。あなたを困らせてるんだね、この僕が」

 

「そうですよ、ココに来る方々にはちゃんとそれなりの理由ってモノがあるんですよ、絶対に。それなのにあなたと来たら……理由も何も見当たらず、ココに来ても寝てばかりで……。横暴な態度で私を無能呼ばわりして」

 

「ごめんなさい、眠いんだ。なんだかとても」

 

「だから! その可愛コぶったキャラお止めなさいよ! ……調子狂うじゃないですか」

 

「わからないよ、キャラって何?」

 

「う、も~う! そっちがその気なら私にも考えがありますよ、ええ。俺って言いなさいよ! うるせ~おっさんだなって言いなさいよ! そんな潤んだ瞳で見つめられたら調子狂うの当たり前じゃないですか!」

 

 

 

僕はムシュリの声を聞きながら又眠りに落ちた……

 

 

 

僕はずっと夢を見ていた。

 

『夢の中』で『夢』を見ていたんだ。

 

暗闇から光の元に曝されて、自分の叫び声を耳に響かせ……

 

優しい母の面影をぼんやりとした視界に焼き付け

 

柔らかな温もりを貪るように……生まれてからの日々をただ夢に見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

目が覚めると又ムシュリが目の前に居た。

 

しかし、今回は背中を向けて少しだけ元気が無い様だ。

 

 

「こんばんは、ムシュリさん」

 

ムシュリはどこか投げやりに挨拶を返してくれた。

 

「こんばんは。今日もそのキャラですか? ま、どうでも良いけど」

 

僕は何となく申し訳なくなって、謝った。

 

「ごめんなさい」

 

ムシュリはため息をつくと、こう言った。

 

「さっき言った事本当ですか? 生まれてからの事を夢見てるって」

 

僕はムシュリにそんな事を言った覚えが無かったが、夢を見てるって事は合っていたのでうなずいた。

 

……なんでしょうねぇ。まるであなた死んじゃうみたいですね」

 

 

 

……死んじゃう? そう言えば死ぬ間際に人間は走馬灯の様に人生を見るとか。

 

そんな事をぼんやり考えてるとムシュリは又大きなため息を一つついた。

 

 

 

「私、この仕事もう人間世界で言えば50年やってるんです。言わばプロ、プロフェッショナルなんですよ。なのに……一度も満足した事って無いんですよ。ココに来る人々をなだめすかして帰すでしょ? で、終了。誰も感謝しない。それどころか……みんなとても悲しそうに帰っていくんですよ、がっくり肩を落として。正しいのかな? って……私のしてる事は本当にみなさんの為になってるのかなぁって思ったりするんです。ココから帰ったらどんな日々が待ち受けてるのか……私には知る由もありません。ただただ仕事だからって、それだけでみなさんを追い返すってどうなんだろうって……

 

 

 

僕は何を言って良いのか解らなかった。

 

そしてムシュリも何を言いたいのか解らない様だった。

 

 

 

「50年も続けてるとそりゃ少しはプライドありますよ、ええ。でもね、あなたみたいな特殊なタイプにはお手上げ。まったく何がなんだか解らないのです。どうしてココに来たのか……本人も解らないんじゃ、帰り道も何もあったもんじゃない」

 

僕は小声でもう一度だけ謝って、また眠りに落ちた。

 

 

 

 

 

少し丈の短い学生服のパンツを買い直すかこのまま卒業まで我慢するか……茶色く染めた髪を何度も鏡でチェックしながら僕は考えあぐねている。

 

友人達とふざけ合いながらでたらめに歌った「あおげばとおとし」……ふざけてなければ涙がこぼれそうで。

 

兄の居る友人宅で吸ったタバコは苦しいだけでちっともおいしくなかった。

 

 

 

 

 

「ちょっと! ヒデオさん! 起きて下さい」

 

ムシュリに起こされた僕はぼんやりとムシュリを見つめる。

 

「ああ、またそっちのヒデオさん? ま、いっか。ああ、そうですよ一個解ったんです」

 

「何を解ったんですか?」

 

「もうすぐあなた誕生日らしいんですよ、二十歳の」

 

「へぇ」

 

「へぇ……って! せっかくの記念すべき日に眠ったまんまで良いんですか?あなたは!」

 

……駄目ですか?」

 

「駄目も駄目、大駄目ですよ、あなた」

 

「はぁ」

 

「早く起きなきゃ。 起きてなんかホラ人間界ではホラなんて言いましたっけ?せ、せい、成人式!」

 

「成人式?」

 

「そう! 成人式行かなきゃ」

 

「はぁ」

 

「はぁってあなた! せっかくの晴れ舞台眠ったまんまで、しかも現世だけじゃ飽き足らず夢の中でも寝てるなんて不健康そのものじゃありませんか!」

 

……そうですね、頑張ります」

 

「はい、頑張って! って、あなた何を頑張るって言うんですか」

 

「いや、まぁ」

 

「まぁって……さっきまでの勢いはどこへ行ったんですか?」

 

「ごめんなさい」

 

……もしかして本当にあなたはさっきまでのヒデオさんでは無いんですか……?」

 

「わかりません」

 

 

ムシュリは何か考えるように頭を掻いて、僕を見つめた。

ココで眠ったら怒るかな? なんて思ってはみたものの睡魔には敵わない……

 

 

 

 

 

 

女の人が泣いている。

 

僕はホントは女の人を引き止めたいのにつまらなさそうにタバコを吸って外ばかり見てる。

 

泣きたいのは俺の方だ。

 

そんな言葉を煙と一緒に吐き出してる僕の声は心とは裏腹に冷たい響きで悲しくなった。

 

 

 

 

 

日々違う人間達に囲まれ笑い転げてる。

 

一人で過ごしてる時はまるで……からっぽ。

 

からっぽなのが、なんだか申し訳なかった。

 

こんな俺で申し訳なかった。なんで俺だったんだ?

 

なんで俺だけ生まれたんだ?

 

せっかく生まれたのに……俺はこんなにからっぽだなんて。

 

 

 

 

 

僕はなんだか悲しかった。

 

 

 

 

 

目が覚めると、僕は大きく伸びをした。

 

ムシュリは相変わらす側に居て、その見慣れた光景に、僕は少し笑ってしまった。

 

 

 

「そうですか、やっと終わりましたか」

 

「ええ、そうみたいですね」

 

「私はまったく信じちゃいませんよ、そんな事があるはずない」

 

ムシュリはそう言いながらも少しだけ嬉しそうだ。

 

「ヒデオにはお礼を言っておいて下さい」

 

「わかりました、絶対伝えます」

 

「ヒデオは何も悪くなかったのに……生まれる力が僕には無かっただけ」

 

ムシュリは僕の肩にそっと手を置いた。

 

 

 

「あの日も……ヒデオは僕に何度も呼びかけてくれた。がんばれ、がんばれって……一緒にこの暗い闇を抜けて外へ出ようって。だけど僕は途中で諦めたんだ。なのにヒデオは……僕の弟はこんなにも自分だけ生まれた事に罪を感じていたなんて……

 

 

「どうでしたか? ヒデオ君の人生は……あなたへのプレゼントはあなたの目にはどう映ったんですか?」

 

「素晴らしい、こんなにも生まれる事が素晴らしいなんて……少し悔しいほどだよ」

 

「そうですか」

 

「でも……満足しています。ヒデオには感謝しなくちゃ」

 

「それは良かった。一つだけ聞いて良いですか? なぜ彼はそんな大変な作業を私に内緒で実行出来たんでしょう?」

 

「多分……本人も気付いていないような深い所がココへ繋がったんでしょう。ヒデオは随分と恥ずかしがり屋な様だから」

 

 

「はは! あのがさつなヒデオさんがですか? あは! はははは!」

 

楽しそうに笑うムシュリに僕は言いたい言葉があった。

 

「どうもありがとう、ムシュリさん。ホントは知ってたんでしょう?」

 

ムシュリは一瞬「は!」と、した顔をして、それでもすまし顔をなんとか保ち、

 

「いえ、私は何にも知りませんでした」

 

さすがこの道50年のプロは違うなぁ。なんて、思ってると視界がぼやけてきた。

 

 

 

「そろそろ……時間みたいです。ヒデオを帰してやらなきゃ……じゃないと、せ、せ……

 

「成人式~!!!!!!!!!」

 

 

 

 

……うるせーな。おっさん、成人式、成人式うるせーよ」

 

ムシュリは、ヒデオの相変わらずの口振りをなんだかとても頼もしく感じた。

 

 

 

「はい! じゃあ帰りましょ、あなたちっとも言う事聞いてくれないから仏のムシュリ様もホトホト疲れちゃいましたよ!」

 

「だから言ってるじゃねぇか、帰りたくても帰り道が……なんだこれ?!」

 

 

 

ヒデオは無数に伸びる光の道を見つめ、驚いている。

 

ムシュリはかしこまった態度で深々とお辞儀をして、光の道へヒデオを誘う。

 

光の道の上に立ったヒデオは一歩一歩戸惑いながらも歩き出す……

 

小さくなるヒデオの後ろ姿に、ムシュリは約束を果たすため声をかけた。

 

 

 

 

「どうもありがとうって! ……お兄さんがありがとうって!」

 

 

 

 

振り返った照れくさそうなヒデオの顔は、さっきまでココに居た兄の顔にそっくりで……

 

もう少しこの仕事を続けてみようかと思ったムシュリであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

美しき願望

 

「そしてお姫さまは幸せに暮らしましたとさ」

 

そう、いつだって物語はそこで終わってしまう

 

  

 

 

 

 

 

夜中にうなされて目覚めたお姫さま

 

隣で寝息を立てる王子の顔に舌打ち一つ

 

 

「退屈だわ、全然」

 

 

思い返すのは不幸だったあの頃

 

 

カフカのベッドもキレイなドレスも持ってやしなかったけれど

 

なんだか生きてる感じがしたわ

 

 

 

 

 

 

世界で一番美しい死体だなんて

 

いっその事吐き出さなきゃ良かったかしら?

 

 

美しいというだけで、受けた数々の暴力と

 

喉を焼くイヤな匂いが忘れられないの

 

 

 

「こんなモノ食べられないわ」

 

 

 

痩せ細った身体を抱きしめて今日も嗤う

 

これで私はきっと大丈夫

 

 

 

 

 

眠れない夜に思い出すのは

 

いつだってあのお姫さま

 

最後まで幸福にはなれなかった唯一のお姫さま

 

声を失って、信頼まで失って、すべて失した

 

 

 

 

 

 

寝言で聞いた他の誰かの名前

 

身を切るような切なさが身体を貫いて

 

その後、きっとあなたは嘲ったのでしょう

 

 

 

愚かな王子を愛した自分自身を

 

 

 

「さあ帰りましょうあの海へ」

 

身を投げて泡と化したお姫さま

 

 

 

 

 

完璧な“悲劇のヒロイン”という称号に焦がれる

 

お姫さま達の妬ましさを一身に引き受け

 

海の藻屑となりましたとさ

 

 

 

 

 

 

 

破戒

幼き頃から“出来損ない”と、呼ばれて育った。

 

 

 

 

 

両親は、そんな私を不憫に思ってか、誰の目にも留めないようにと、家屋の地下に窓の無い部屋を与えてくれた。

 

 

 

 

窓は無いが、毎日花が生けかえられ、食事を運んでくれるそんな部屋の何処に不満があるというのだろう。

 

 

 

私はそんな生活を受け入れた。

 

 

 

 

 

 

 

世界の広さを測るには小さ過ぎるその部屋が、私のような“出来損ない”にとってのすべてだった。

 

 

 

 

私を知る者はほんの少しの身内と、時折訪れる羽虫以外には誰も居なかった。

 

 

 

 

四季すら知らず過ごす日々の中でも、少なからず季節の移り変わりを知っていた。

 

 

 

 

春は眠く、夏は暑く、秋は寂しく、冬は空気がきれいだった。

 

 

 

 

 

りりりり

 

 

 

りりりり

 

 

 

 

虫の声は近くて遠くて、そして愉快で悲しげだった。

 

 

 

虫達は皆、同じ歌を知っているのだと、感心したものだ。

 

 

 

 

 

私も誰かと一緒に歌ってみたかった。

 

 

しかし、出過ぎた欲だと、“出来損ない”のクセにと、自分を恥じるだけにした。

 

 

 

 

 

 

言葉は知っていたが、声に出すと、その言葉自体の美しさを損ないそうで恐ろしかった。

 

 

 

母は、私が言葉をしゃべれないのだと思っていたが、私は自分でしゃべる事を遠慮しただけに過ぎなかった。

 

 

 

 

 

 

「可哀想に」

 

 

 

母は私の頬を撫でながら「可哀想に」と、よく泣いた。

 

 

 

私は「可哀想」で「不憫」であるらしかった。

 

 

 

 

 

 

“出来損ない”のクセに何不自由ない生活を送っている私の何処が「可哀想」だというのだろう。

 

 

 

こんな“出来損ない”を子に持った母の方が幾倍も「可哀想」であるはずだ。

 

 

 

感謝こそすれど、自分の境遇を呪った事など一度もあるはずはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

母は呪っただろうか。

 

 

 

母は、母の運命を呪ったのだろうか。

 

 

 

 

 

少し痩せたように見えるのは、私の存在のせいかと思い、すぐ打ち消した。

 

 

 

私みたいな“出来損ない”がおこがましいと、自嘲した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

父にも悪い事をした。

 

 

 

 

首を切り落としても私が生き続けるとは、夢にも思わなかった事だろう。

 

 

 

 

“出来損ない”のくせに、殺す事すら出来ないとは、厚かましいにもほどがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日も私はこの小さな部屋で

 

 

 

声にならない声で歌う

 

 

 

私以外の人々の幸福を願う

 

 

 

おこがましいだけの歌を

 

 

 

 

 

 

 

願う事すら許されるはずがない

 

 

 

そんな私の破戒の歌

 

 

 

 

 

夜明け前

これは春の日。

 

 

 


まだ夜明けにはほど遠い午前3時。

 


女は緩慢な歩みで目的地を目指していた。

 

 

 


真夜中の商店街には不似合いな荷物を抱え、女は歩いていた。

 

 

 

 


目的地はもうすぐそこだ。

 

 

 

 


2度と帰らないと思っていた故郷の商店街は何一つ変わる事なく、

 


変わってしまった女を突き放すようにガランと静まり返っていた。

 


華やかさの欠片もないこの商店街もこの街自体も女は大嫌いだった。

 

 

 


どうして・・・ ココに戻って来たんだろう?

 


自分の中に湧き上がる疑問に女は自ら答えを出した。

 


「だって、ココしか知らないから」

 

 

 


静まり返った商店街では、女のつぶやきを耳にする者はない。

 

 

 


あと10分も歩けば、目的地にたどり着く・・そう思った途端

 


女は胸に抱えた荷物にすがりつくようにその場に座り込んだ。

 

 

 


抱えた荷物のほのかな甘い香りを胸いっぱいに吸い込み

 


女はその荷物を自分が手放す事が出来るのか不安になった。

 

 

 


だって

 


私にはもうどうにも出来ないし

 


何度も考えて、出した答えだから

 

 

 

 


寒くないだろうか、すぐに誰か気付いてくれるだろうか

 


色々な心配事が頭をかけまわる。

 


身体が重く、立ち上がる事すら億劫だ。

 

 

 

 

 

 


・・・ ずず・ずずず・ずずりずるずる

 

 

 

 

 


誰も居ないはずの商店街の真ん中で、女が異音に気づき顔をあげると

 


女が歩いて来た方角から男が何かをひきずりながらこちらの方へ向かって来るのが見えた。

 


男は重そうに何かを引き摺りながら自分の行く手に座り込む女に視線を合わせた。

 

 

 

 

 


女はとっさに目を逸らし、胸の荷物を強く抱きしめた。

 

 


誰も居ない真夜中の場所では絶対関わりたくないタイプの男だった。

 

 

 

 

 


女の心情などおかまい無しに、男はひきずっていたナニかからあっさりと手を離し

 


女の方へ小走りに近寄って来た。

 

 

 

 


「ね、ね、煙草持ってない?」

 

 

 


女は立ち上がるのも忘れ、男の質問に答えた。

 

 

 


「も、持ってないです」

 

 

 

 


すると男はニヤニヤと笑いながらジーンズのポケットからつぶれた煙草を取り出して口にくわえ、火をつけた。

 

 


女が呆気にとられて男の煙草を見つめていると、男は女の視線に気づき、潰れた煙草を女に差し出した。

 

 

 

 


「煙草いる?」

 

 

 

 


女は首をふり、それと同時にすっかり忘れていた“立ち上がる”という行為を思い出した。

 


男は立ち上がった女をジロジロと眺め、さもおかしそうに女に訊ねた。

 

 

 

 


「ねね、何ヶ月?」

 

 

 


女は抱いている荷物を守るようにギュッと抱きしめた。

 


女は男の質問に答えるつもりもなく、軽く会釈してその場を立ち去ろうとした。

 

 

 

 


「午前3時に赤ん坊を抱えた女が一人」

 

 

 

 


男は女が向かう方向を指差し、ニヤニヤと笑いながらと煙草の煙を吐き出した。

 

 

 


「あそこに捨てに行くんだろ? あの教会だろ?」

 

 


男の言葉に女はギクリと身体を揺らし、思わずその場に立ち止まった。

 

 

 


「じゃさ。オレが拾うからココでくれよ、その赤ん坊」

 

 


男はニヤニヤと楽しげで、女は自分がやはり「ついてない」と、落ち込んだ。

 

 

 

 


「もう無理なんです、だから許して下さい」

 

 

 


男は女の意味不明な懇願に首をひねり、手を伸ばした。

 

 

 


「ね、ね、オレにくれよ、要らないんだろ?」

 

 

 


女は身をよじり、男の手から赤ん坊を守るようにしながらも男の言葉に感心していた。

 

 

 

 

 


確かに 。

 


どうせ、捨てに来たくせに。

 


この男には渡せないなんておかしな話だ。

 


捨ててしまった後は守る事など出来ないのは知っているのに。

 

 

 

 

 


女はなんだかとても馬鹿らしくなって、男の方に勢いをつけて振り返った。

 

 

 


「6ヶ月、男の子です」

 

 

 


眠っている赤ん坊の顔を男に見せるように、腕を緩めた。

 

 

 

 


男は満面の笑みで、赤ん坊を覗き込み、猫にでも話しかけるような声音で赤ん坊に話しかけてきた。

 

 

 


「男の子でちゅかーまるまるしてまちゅねー」

 

 

 

 

 

 


女は赤ん坊を見る時と同じ穏やかな笑顔で男にこう訊ねた。

 

 

 


「あの、今何時ですか? 駅ってもう開いていますか?」

 

 


男は急に真面目な顔をして、慌てたような口調になってこう言った。

 

 


「え? 帰るの? マジでオレにくれるの?」

 

 


男はそう言いながらぎこちなく赤ん坊に手を伸ばした。


女はさも可笑しそうに笑い声をあげ、手を顔の前で振った。

 

 

 


「あげませんよ? 帰るんです、二人で」

 

 

 

 

 

 


女は不思議に思っていた。

 


どうしてこの子を手放せるとさっきまで思えたのだろうと。

 

 

 

 


男は名残惜しそうに、口を尖らせ女に言った。

 

 

 


「ちょっ! なんだよ! 期待させんなよ!」

 

 

 


女は男の本当に残念そうな口ぶりに吹き出しそうになった。

 


男が悪態をつくほど、女は自分の中に力が沸き上がるような
この先もずっと頑張れるようなそんな気持になった。

 

 

 

 


「そんじゃ、やっぱり天国は無理かー」

 

 

 


男は悪い事ばかりしてきたから

 


子供でも育てないと天国には入れてもらえなさそうだと溜め息をついた。

 

 

 


今にも泣きそうな顔の男に

 


「行けますよ、天国」

 


女はまじめな顔できっぱりとそう言った。

 

 

 

 

 


「私がこの子を育てて、天国行きますから。そしたらあなたも天国に呼んであげますよ」

 


男は何か言いかけて、すうっと背筋を伸ばし、さも楽しそうに大きな声で笑った。

 

 

 

 


「天国って、コネ使えるのか?」

 

 


女は「さあ?」と、首を大げさに傾げ、いま来た道を戻る事を心の底から幸福に思った。

 

 

 

 

 


「絶対忘れるなよ、天国から呼べよ、絶対だぞ」

 


女は男の真剣なまなざしに、微笑みで応え、さっきとは逆の方角に歩き出した。

 


しっかりとした足取りで駅の方へと歩いていく女の後ろ姿を見つめながら男は考えていた。

 

 

 

 


天国にコネクションが出来たってのは、ラッキーだ。


いつまでもこんな同じ日々では、気が滅入るってもんだ。

 

 

 


「さて、と」

 

 

 


女の姿が見えなくなると、男はさっき放り出した大きな麻袋に手を伸ばし、来た時と同じようにひきずりはじめた。

 

 

 

 

 

 


しかし、なんだな。

 


オレ、かれこれどんぐらいこんな事してんだろ

 


自分の死体をひきずって、何処へ行くつもりなんだろ

 


あの教会へはいつまで経っても辿り着かないし

 


一本道で迷うはずもないっていうのに

 

 

 

 


まあ、仕方ない

 


あの女が死ぬまでの辛抱だ

 

 

 


男は鼻歌まじりで、麻袋をひきずり始めた。

 

 

 

 

 

 


男の天国へ向かう道のりは遠そうだ

 


だがしかし

 


誰でも

 


希望を持つ事だけは許されている

 

 

 

 

 

喜びのうた

あれから何度目の夏が過ぎた事だろう。


僕は夏が来る度、君の歌う調子っぱずれの“あの歌”を思い出す。


あの夏の日の思い出はなんだかとても不確かで、見失ってしまった所だらけだけど


後付けされた色彩のように、僕の心に焼き付いて離れない。

 

 

 

 

 

 


あの夏、僕らは偶然出会った。

 

 


「家庭の事情」と、いうクダラナイ事情で、ひと夏だけ1人で過ごす事になった僕は、小さな頃憧れていた海の綺麗なあの街を訪れた。


でも高校生の一人旅なんてものには何の計画性も無く、ただただ海を眺めるだけの退屈な日々を僕は送っていた。

 

 

 


「…イデ…ネルゲッテル…ケン…トホテル……エーリジウム…」


風に乗って聞こえてきた歌声に思わず耳を澄まし、盛大に吹き出した。

 

 

 


「ヘタクソ過ぎる」

 

 


お世辞にも上手いとは言えないその歌声に、悪態をつきながらも少なからず興味を持ってしまった僕だった。

 

 


「フロイデ シェーネルゲッテル フンケン トホテル アウス エーリージウム…」

 

 


知らず知らずに口ずさんでいる自分に気付き、笑い声をあげた。


知らない誰かのヘタクソな歌を憶えたりして、何の得になるのだろう?

 

 

 

 


こんなにヘタクソな歌に付き合ってやったんだから、顔くらい見てもバチは当たらないだろうと、歌声の聞こえてくるベランダから下を覗き込むと、真っ白な足がリズムを刻みながらブラブラ揺れていた。

 

 


「子供かよ」


などと、口では言いつつ、そのまっすぐに伸びた綺麗な白い足からは目が離せずにいると、歌声は急に止み“足”も同時にスルスルと引っ込んでいってしまった。

 

 

 

 

 


その時に浮かんだ退屈な毎日の密かな計画。


ヘタクソな歌声の……いや、あの綺麗な足の持ち主の顔を拝んでやろう。

 

 


しかし、旅自体無計画なこの僕に、計画性などあるわけがなく、そんな計画自体をすっかり忘れてしまい日々は流れた。

 

 

 


唯一憶えていたものといえば……そう、あの歌。


僕は気付くと、あの歌を口ずさむようになっていた。

 

 


「フロイデ シェーネルゲッテン フンケン トホテル アウス エーリージウム…」


知らない間に随分と大きな声で歌っていたのか、階下からこんな声が聞こえてきた。

 

 

 


「ねぇ~!! 上の人ーーー!!」

 

 

 


もしかして白い足?


急いで窓の下を覗き込むと、そこには真面目くさった顔の君が居た。

 

 

 

 


「その歌好きなの?」


初対面だというのになんの惑いも無く君は訊ねた。

 

 


「別に……。ってか、この歌って”第九”?」


君はうんざりしたようにため息をつき、僕の顔をしっかりと見つめながらこう言った。

 

 


「”喜びの歌”って言ってくれない? そして好きじゃ無いならそんな大声で歌わないで」


…クソ生意気な女だな。


僕はすっかり腹を立て、君の挑発に乗ってしまった。

 

 


「どっかのクソ女が、ヘッタクソ過ぎる歌を、大声で毎日毎日歌ってっから!」


そう言い放ち、窓を乱暴に閉めると、しばらくして部屋のドアをノックする音が聞こえた。

 

 


「ドンドンドンドン! 」

 

 


まさか? と、思いながらドアを開けるとその「まさか」が立っていた。

 

 


「…何?」


君は自分の身体を抱くように腕組みしながら、僕の顔を不躾に見つめた。

 

 

 

 


「…ねぇ、あんた何才? 」


「…なんで?」


「見た目……んと、高校生? 」


「だからなんで? 」


「私、高校行って無いから……興味があって」


「あ、そう。んじゃ、正解。高校生。じゃ、そういう事で」

 

 


ドアを閉めようとした僕に君はある提案をした。

 

 


「遊びに行かない? 暇なんでしょ」

 

 


顔ではさも面倒臭そうにその提案を受け入れた僕は、その日からぶっ通しで、君とあの夏を過ごす事になった。

 

 

 

 


エキセントリックで無邪気な君は、僕のはじめてみるタイプの女の子だった。


はしゃいでいても、何処か悲しげに見える瞳の理由など知る由もない僕だった。

 

 

 

 


君について知った事。


あの階下のホテルの部屋には、一ヶ月滞在しているという事。


高校には行っていないという事。


「喜びの歌」が大好きだという事。


それ以外は名前さえ……本当だったのかも解らない。

 

 

 

 

 


「ねぇ。なんで1人でこんなへんぴな所に来たの? 」


君は抜けるような青い空をうんざりしたように見上げ、僕に訊ねた。

 

 


僕は君に習うようにうんざりした顔を作って


「家に居るよりはマシだから。別に特別な理由なんて無いよ」などと、かっこつけた。

 

 

 


じゃあ、君はなんで? と、聞きかけて止めた。


大人びた君に対して、僕は精一杯の背伸びをしたかったのだろうと今では思う。

 

 

 

 


シーズンでも人の少ない岩場で、君は調子っぱずれのあの歌をよく口ずさんだ。

 

 

 


「フロイデ シェーネルゲッテル フンケン トホテル アウス エーリージウム…」


なんだかまるで呪文みたいに繰り返す、君特有のメロディーが僕には心地よく、そして笑いのツボでもあった。

 

 


笑い声をあげる僕の事を、君はいつだって怒っていたっけ。

 

 

 


「じゃあ歌ってよ。次は私が笑う番でしょ? 」

 

 

 


何度も断ったが、結局歌う羽目になり、恥ずかしさを消すかのように声を張り上げ歌う僕の声は、


青い空と青い海にあまりにも不似合いで、笑い転げながら君の方を振り返った。

 

 

 


「笑えるっしょ? 」

 

 

 


そう言いながら君の方へ振り返った僕は驚いた。


まるで……君が泣いているように見えたから。


君はすぐにいつもの調子で、顔をあげて答えた。

 

 


「うん、爆笑」

 

 


君の微かに震えた声が悲しくて、僕はもう二度と君の前であの歌をは歌うまいと決めた。

 

 

 


「私、もう絶対に、こんな楽しい気持ちにはならないと思ってた」


突然言い出した君の言葉が嬉しくて、僕はとても誇らしい気持ちになったものだ。


君の口から語られる次の言葉を聞くまでの……ほんの一瞬だったけど。

 

 

 


君はこの海で恋人を亡くした。


その恋人が好きだった「喜びの歌」を君も大好きだった。


恋人が最期に滞在したあのホテルに泊まりに来て、恋人を飲み込んだあの海を眺めて過ごしていた。

 

 

 


本当に驚いたと君は言う。

 

 

 


ホテルの上の部屋から聞こえてきた僕の歌声が、恋人の声にあまりにも似ていたから。


そして、あのホテルの部屋で君は何度も願ったと言う。

 

 

 


「もう一度、彼に会わせて」と。

 

 

 


僕がそれを聞いた時、何を思ったかはもう忘れてしまった。


君の亡くした恋人に嫉妬したのか……間違いでも君の力になれた事を喜んだのか。


そう、今となっては定かではない。

 

 

 


愛だと恋だとか……。


今となってはもうよく分からないけど、君の事が大好きだった事は確かだ。

 

 

 

 


「こんな楽しい夏はもう来ないんだろうなぁ」と、つぶやいては翳りを帯びる君の瞳が切なくて。


僕は君の望みならすべて受け入れたいと、本気で思い込んでしまったのかな。

 

 

 


君の細い首をゆっくりとこの手で絞める事さえ、あの夏の僕には簡単な事だった。

 

 

 


「私、決めてたの。次に楽しいと心から思えたら……こうしようって」


君はそう言って、僕の手をとり、君の首にまわした。

 

 

 


「ほーんと苦しかったんだ。だけど欲深いね……あんな悲しい気持ちで終わりたくもなかった」


僕の手に重ねられた君の手に導かれるまま……僕は自分の指に力をこめたんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 


あれから何度目の夏が過ぎたのか……忘れてしまったけれど、今でも時々あの歌を口ずさむ。

 

 

 

 


「フロイデ シェーネルゲッテン フンケン トホテル アウス エーリージウム…」

 

 

 

 

 

 


君は“あの夏”のまま、まだあの景色の中にいるのだろうか。

 


君が言った通り、“あの夏”より楽しい夏なんて。

 


ホントに、一度も無かったよ。

 

 

 

 

サキュパス

サービスエリアはいつだって賑わっていて、どっから湧いたのか沢山の人間たちで溢れている。

 


ここにいる全ての人間が自分の向かうべき場所を知ってるのか?

 


そんなどうでもいいことがオレには気になってしょうがない。

 


年寄りも若者もバカみたいな顔してオレよりは志が高いのだろう。

まあオレはオレで望まれてもいないのにサービスエリアに来てる時点で志が高いとも言えるが、来る必要もない場所に無理して来てるだけだから別段褒められることもない。

 


オレには車がないからサービスエリアには余程の心構えがないと入り込む事すら出来ない。今回も至難の技だったが、時々サービスエリアで人間たちを眺める時間をオレは気に入っているのだ。

 


皆忙しそうだ。

 


オレの行き先もこの大勢いる人間の中で一人くらいは知っているかもしれないが、そもそも一回死んだ人間の行き先なんか地獄以外ないだろう?

だからいつかたどり着くまで正解は先延ばしにしたい気分でもある。

 


無理心中の生き残りに輝かしい未来などなく、安らかな死と引き換えに手に入れたのは、煩わしいだけの特技だけ。

 


死んだ人間やそもそも生まれたこともないような禍々しいモノがオレには見えるのだ。

まぁ、その特技でお気に入りのサービスエリアで大好物のアメリカンドッグも買えるし、悪いことばかりでもない。

 

 

 

トテテクツンテンツクツン♪

 


携帯音は好きじゃない。自分の携帯から奏でられる場合特にだ。

 

 

 

「うるせーよ」誰かに使えと渡されたわざとらしいデコ携帯に悪態を吐きながら電話に出る。

 


「自分探しの旅お疲れ様です。急を要する案件をお伝えしたく、お電話差し上げた次第です」電話の相手は、機械のように冷静に話す人間味のない男だった。

 

 

 

「自分探しの旅に出た覚えはない。お前誰?」オレの問いかけには答えず、電話の相手は、一瞬間を置きこう言った。

 


「携帯の着信が入ったときに確認する事をお勧め致します。僭越ですが、アドバイスを差し上げさせて頂くと、オレオレ詐偽など巷では流行っておりますのでご注意くださいませ」電話の相手の言う通りに、携帯の着信欄を見ると『マロンちゃん』とある。

 


「わかった。マロンちゃん。で、案件って何?」マロンちゃんって名前には似つかない冷静さでマロンちゃんは質問に答えてくれた。

 


「世界滅亡の危機が訪れております。貴方様には最近巷にばらまかれた『ある薬』についてお調べ願いたい次第でございます」

 


「オレにとって世界が滅亡しても大差ないんだが、調べるのは・・・嫌いじゃない」オレは本音を告げた。

 


「それでは、詳細をお伝えすべく、こちらから従者を派遣させて頂きます」

 


従者?またあいつか?嫌な予感がしてオレはストレートに気持ちを伝えてみた。

 


「あ、前に来た奴もう来させないでね。気が合わない」

 


「アカシですか?しかしなにぶん人不足なのがこの業界の常。少ない人数で純利益を上げるために必死でございます。手の空いている従者の仕事を奪うわけにはいきません。もしどうしてもとおっしゃるならアカシを殺して頂ければ、新しい従者を雇う事が出来ると思いますのでお任せ致します」

 


「じゃ・・・アカシで」

 


マロンちゃんは素っ気なく「ではよろしくお願い致します」と電話を切った。

 

 

 

 


オレはそっと目を閉じて、アカシの到着まで目を休めようと思ったが、思いのほか早く目を開ける事になった。

 


「ペテン師野郎、何ぼさっと突っ立てるんだ?」

 


アカシはまるで今日がハロウィンで、ここが渋谷の真ん中みたいな格好でこちらを睨みつけている。

 


「え?何?お前どこの貴族?ってか魔族?バカなの?」

 


オレの質問に気を良くしたアカシは中世の騎士のようなポーズで、相変わらずの早口で今日のファッションテーマについてまくし立てる。その周りには、アカシを隠し撮りする輩まで出る始末。

 


「うん、元気で何より」尻尾もあるし、ツノもある。顔の横に別の顔もある。オレの無の表情に気を悪くしないアカシは鈍感力に長けていた。

 


アカシ、早く仕事をやれ。純利益上げないとマロンちゃんがお前を殺すよ?

 


そんな事を考えていると、アカシは一瞬身震いして、目的を思い出したようだ。

 

 

 

「ペテン師、なんでお前がでしゃばる?今回はお前の出る幕はないぞ? 」

 


「知らね。お前の上司がオレにお願いします、助けてくださいって言って来てるんだよ、アカシじゃ無理だからお願いしますって」

 


アカシは顔を真っ赤にしながら「死に損ないめ。次は絶対生き返るな」と、睨みつけて来たが、二度と生き返るか、バカめ。一度死んでみろ、一回で充分だと、生き返った時の辛さに思いを馳せているオレの表情をアカシの言葉でひるんだと勘違いしたアカシは、勝ち誇ったような顔で今回の依頼の詳細を話し始めた。

 


今回の依頼主である風俗産業大手のマスクライフ株式会社では、この数ヶ月前年を大きく下回る業績に幹部達は頭を悩ましていた。

ことごとく優良顧客が離れ、指名が入らず待合室は女の子で溢れた。

外でキャッチしようにも、ターゲット層である男達が街から消え失せたとのこと。

 


指名が欲しい女の子達は、必死に顧客にテルコールを繰り返したが、女の子達のテレコールですら無視されることが多く、ごく少数会話する事が出来た男達も女の子達の願いを叶えるものは少なかった。そのわずかだが会話をする事が出来た男達は、口々にこう言ったという「マジで今まで無駄な金使った。今は『サキュパス』さえあれば、いつでも満足できる。値段も安価だし、最高としか言いようがない」

 


「サキュパス」という名の淫夢薬の出所を調べるのが今回の依頼らしい。

 

 

 

アカシは依頼を伝え終わると、オレの目の前にピンクの薬瓶を差し出してニッコリと笑った。

 


「あたち女の子だから試せない」わざとらしくシナを作り、アカシは目を輝かせたのだった。

 

 

 

家までついて来て、薬の効果を自分の目で確かめると言うアカシを振り切り、自宅に戻ったオレは「サキュパス」の入った薬瓶を眺めていた。

 


淫夢をみさせるというその薬は、禍々しいものにしかないオーラを纏っていた。

 


アカシよ。お前の上司はオレの特技を生かす仕事をくれたようだぞ。

 


・・・飲むか?

 


めくるめく世界に興味はあるが、禍々しいもんを体内に取り込む気にはなれない。

 


じゃ、直接訊いてみるしかないか。

 


「お前の正体は見切った。出てこい」

 


・・・音沙汰なし。

 

 

 

 


「よし、錠剤が喋るはずがない」オレは錠剤を床に置き、大の字に寝転がり目を閉じた。

 


この手の奴らは承認欲求が強い。

オレの特技に気づいたなら自分の存在を是が非でも見せつけて来るはずだ。

 


部屋の温度が下がった気がして、作戦が成功した事を確信した。

 

 

 

「ハロー。あんた、見える系?」

 


ほら来た。こいつらの興味は承認欲求を満たす事だけと言っても過言ではない。

 


「見える。お前に聞きたい事がある」起き上がりあぐらをかき、オレは女の方に目をやった。

 


割りにしっかりと姿を現した女は、つまらなさそうに毛先をいじりながら頷いた。

 


「なんで薬に憑依してんの?」

 


女は首を傾げ「わかんない」と、退屈そうに答えた。

 


そして女は「そんな事より」と、自分の生い立ちを話し始めたのだった。

 

 

 

・・・長かった。

 

 

 

まとめると、田舎から出てきた不良娘が東京で堕ちるところまで堕ちていったが、それなりに自分の生きがいを見つけ、それなりに頑張り、それなりに悩み、それなりに這いつくばり、気づいたら錠剤となり、男に飲まれ、男の望みを叶えることに生きがいを見出し、今に至る。

 


「そうめんくらい、流されやすい女だな」

 


女は、オレの侮辱もさらりと受け流し「だって、考えるのめんどいし」と、気にも留めなかった。

 


「望みは?どうしたら成仏する?」

 


女は「成仏?」と、知らない外国の地名でも聞いたかのように不思議そうな顔をして、くすぐったそうに笑った。

 

 

 

「私、誰も恨んでないし。今の生き方嫌いじゃないんだよね」

 


こいつらのギャグは大体生き死にが絡むネタが多い。

 


「生きてねーし」

 


爆笑。

ツボも浅めだ。

 

 

 

この世の者ではない奴らと話すと体力を思いの外奪われるようだ。

 


小一時間前から携帯着信がひっきりなしに鳴り響いてるが、手を伸ばす事すら今のオレには難しい。・・・なんて事は特になく、アカシという着信相手の名前を確認したからでしかない。

 


携帯の着信音がやけに響く何にもない部屋の中でごろごろと転がっては壁にぶつかり、またごろごろと逆の壁へと転がる事がやけに楽しいオレだった。

 


そろそろ

 


携帯の着信音は鳴り止み、家のインターホンがモールス信号並みに謎のリズムで押され始めた。

 


「アカシ慌てるな。オレはお前の時々見せる常識のある所が案外好きだぞ。ドアは開いている」

 


アカシはドアを開けて見えるだけのスペースしかないオレの部屋に土足で上がり込んで来た。

 

 

 

「靴を脱げ」

 


わざと常識のないフリをするところも嫌いじゃない。

 

 

 

アカシのファッションは相変わらずイかれているが、取り立てそのファッションについての解釈を求めるつもりはない。

 

 

 

アカシは新しく入手した情報とやらを自慢げに語り始めた。

 

 

 

薬の出所は分かり、ばらまいた奴の身柄も確保したらしい。

 


ここいら一帯を牛耳ってる吉野組の下っ端で、薬の売人をしてる虫ケラだと言う。

 


吉野組に話を通すと、そんな薬を売らせた覚えはないと言う。その下っ端が売ってるのは、混ぜ物だらけのハーブに毛が生えた程度の薬で「サキュパス」の爆発的人気の話をしたら目をギラギラさせて興味津々だったという。吉野組の守銭奴達は色めきたった。

 


このままだとその虫ケラを吉野組が囲い、「サキュパス」を独占しそうな勢いだったのでアカシは冷静に自分の仕事を遂行した。

 


吉野家さんよ。余計な知恵絞ってるヒマあったらその売人渡してスッキリした方がいいよ」

 


アカシは脇に抱えたアルバムを一枚一枚丁寧にめくり、色々な人間達とアカシのツーショット写真を吉野組の組員達に見せたのだった。

 


吉野組の組員達も人の子だったようで、自分の家族と1人残らず写真を撮るアカシの執拗さは伝わったようだった。

 


その売人とやらは、アカシが組を後にする五分後にはアカシの車の後部座席に座っていた。

 


アカシは自分の仕事を自画自賛し、アルバムをオレにも見ろと勧めたが、2、3枚見てすぐに飽きてしまった。

 


ところで。

 


オレはアカシに語るほどの業績も思い浮かばず、話題を変えてみた。

 


「その売人どこだ?」

 


アカシは顔色をサッと変え、小走りに土足のまま部屋を出て行った。そして売人らしき男を連れてまた土足のまま部屋に上がって来た。売人らしき男ももちろん土足だった。

 

 

 

なんだこいつ。そんな第一印象の男だった。

 


アカシはまるで独り舞台でもしてるかのように、今までの経緯と自分の功績と、少しだけオレの紹介を織り交ぜ披露した。

 


たった1人の観客であるはずの売人らしき男は、頭をくしゃくしゃとしながらアカシが何を言ってるのか理解出来ない様子だった。

 


ああ。アカシは鈍感力の申し子だった。

 


オレと売人らしき男は、アカシが話終わるまで待つしか無かった。

 


アカシが男に「サキュパスを売ったのはお前か?」と訊ねると男は「さきゅぱす」と、おうむ返しにするだけで何を考えてるかわからない真っ黒な瞳でアカシとオレの顔を交互に見比べた。

 


「とぼけるのか?お前が売った薬だよ、サキュパスって呼ばれて大人気らしいじゃないか」

 


男は「ああ、クスリか。サキュなんとかって言うのか?白いやつ?なら売った」

 


男はあっさり認めやがった。

 

 

 

 

 

 

錠剤は久しぶりに見る男の姿に記憶が蘇って行くのを感じていた。

 

 

 

そうか、そうだった。

 


私は殺されたんだった。この男に。

 


光に包まれるような温かな気持ちで錠剤はこの男との記憶をたどり始めた。

 

 

 

 

 

 

時々店の裏口付近で見かける若い男。

真っ黒な瞳は物憂げで、草食動物を思わせた。口元はだらしなく、いつも何かをブツブツ言いながら頭をくしゃくしゃとするクセがあった。

 


店の女の子の話では、男は薬の売人であるらしいのだが、いつも先輩風な男に怒られているて可哀想だと、少し頭が足りないんじゃないかなと、補足した。

 

 

 

風俗に長く居ると、男の性癖というか危ない奴か否か分かるようになる。この男からは性的な匂いは一切感じられず、この辺を歩いている男たちのように、店の女の子たちの事を不躾な目で見る事もなく、ただただ生きるのに精一杯って感じの佇まいだった。

 

 

 

ある雨の日、その男が店の裏口でずぶ濡れになりながらカタツムリを見ているのを見かけた。カタツムリのツノをそっと触るたびツノが引っ込むのが面白いようだ。

 

 

 

「風邪ひくよ。カタツムリも生きるのに必死だから放っておいてあげて」

 


男は身体をビクつかせ、私の方を見ると、今までカタツムリのツノを触っていた手をポケットの中に入れた。

 

 

 

私が店に入ろうとすると、男が「こっちこっち」と、小さな声で話しかけてきた。男が指差す方に近づいていくとそこには本当に小さなカタツムリの赤ちゃんが2匹居た。

 


「ちっさ!なにこれちゃんとカタツムリじゃん」男は嬉しそうに頷いて聞こえないような小さな声で「かわいいね」と、何度も言った。

 


男とはそれから顔を合わす度、なんでもない会話をするようになった。男が過去の話をする事はなく、やはり今を生きるだけで精一杯のようだった。

 


夏が来て、カタツムリも姿が見えなくなった時男に訊ねた事がある。

 


「カタツムリが居なくなってさびしい?」と

 


男は不思議そうな顔をして「さびしくない。だってカタツムリは死んだよ」とあっけらかんとした様子で言った。男のそっけなさにまるで自分がカタツムリにでもなったような気になり私は言った。

 


「どうしてさびしくない?」

 


男は死んでしまったら終わりで、カタツムリは無になったから生きる大変さがなくなって良かったと言った。

 


私はそう言われてみればそうだなと妙に納得しながらも男がさびしいと言わなかった事にショックを受けていた。

 


「でもさ、私が死んだら無はイヤだな。出来ればみんなの心の片隅にでも生きていたい」

 


「死んでるのに?生きてるの?」

 


男は不思議そうに目を見開いた。

 


「そう、何処かの誰かの一部になって生きてるの。そしたらさびしくないね」

 


「さびしいがイヤなのか?」

 


「誰だってそうだよ。さびしくない方がいい」

 


男は妙に真剣な顔してこう言った。

 


「今は生きてるからさびしくない?」

 


「さびしい。生きてるからこそさびしいのかもね。よくわかんないや。おっと遅刻、遅刻」

 


私は仕事へと向かった。

 

 

 

 


「で、どうなったんだっけ?」

 

 

 

土足の男女とオレとこの世には居るべきじゃないもう1人の一番まともじゃ無さそうなやつが急に割り込んで来た。

 

 

 

アカシは急にか弱い女にでも取り憑かれたかのように悲鳴をあげ、その場に突っ伏し、気絶した。こういう所が嫌いになりきれない部分だ。

 


「驚かせて悪いんだけど。錠剤の姿では存在感が薄すぎるの」

 


女は悪びれもせず、話を続けた。

 

 

 

女は土足の男に話しかけているようだった。

 


男は見えるべきじゃない女の姿に怯えるでもなく女の言葉に耳を傾けた。

 


「なんで殺したの?」

 


男はなんだそんな話しかと当たり前の様にこう言った。

 


「さびしくないように」

 


女は驚きもせず「そんな気がした」と、推理小説の犯人が自分の推理通りだった時のような誇らしげな顔をした。

 

 

 

オレはもう既に消えてしまいそうに満足してる元錠剤に声をかけた。

 


「この男に殺された?」

 


「そうそう」

 


「で、なんで錠剤に憑依した?」

 


女は首を傾げ「わかんない」と言った。

 


女はオレの言葉を通訳するみたいに男にこう言った。

 


「ねぇ、なんで私薬になっちゃったの?」

 


男は少しだけ考えてこう言った。

 


「殺してから燃やして、灰になった。それを薬に混ぜたからかもしれない」

 


女は薬に混ぜるために殺したの?と、原料としての殺害だったかを問いただした。

 


「違う。みんなの中で生きたいって言ったから」

 


「だから薬に遺灰を混ぜて、私をみんなに飲ませたんだ」

 


男は頷き、心配そうに女に訊ねた。

 

 

 

「さびしくなくなった?」

 

 

 

女は男の真っ黒な瞳を見つめ、笑顔でこう言った。

 


「びっくりするくらいさびしくなくなった」

 

 

 

男は嬉しそうに頭をくしゃくしゃっとしてもうそこには居ない女の姿が見えてるかのように目を細めた。

 


アカシは気を失ったままだったが、もう聞く事もないので、オレは男にも帰って良いよと手を振った。

 

 

 

サキュパスの効力はもう既にない。というか、もしかしたら最初からそんな効力はなかったのかもしれない。

女の遺灰から得られるモノなんて若干のカルシウムくらいだろ。

 


錠剤に憑依した女はバカ真面目で、サービス精神に長けていた。

 

 

 

 


・・・アカシは気絶から本気寝に移行したようで、イビキをかきはじめた。