夜明け前

これは春の日。

 

 

 


まだ夜明けにはほど遠い午前3時。

 


女は緩慢な歩みで目的地を目指していた。

 

 

 


真夜中の商店街には不似合いな荷物を抱え、女は歩いていた。

 

 

 

 


目的地はもうすぐそこだ。

 

 

 

 


2度と帰らないと思っていた故郷の商店街は何一つ変わる事なく、

 


変わってしまった女を突き放すようにガランと静まり返っていた。

 


華やかさの欠片もないこの商店街もこの街自体も女は大嫌いだった。

 

 

 


どうして・・・ ココに戻って来たんだろう?

 


自分の中に湧き上がる疑問に女は自ら答えを出した。

 


「だって、ココしか知らないから」

 

 

 


静まり返った商店街では、女のつぶやきを耳にする者はない。

 

 

 


あと10分も歩けば、目的地にたどり着く・・そう思った途端

 


女は胸に抱えた荷物にすがりつくようにその場に座り込んだ。

 

 

 


抱えた荷物のほのかな甘い香りを胸いっぱいに吸い込み

 


女はその荷物を自分が手放す事が出来るのか不安になった。

 

 

 


だって

 


私にはもうどうにも出来ないし

 


何度も考えて、出した答えだから

 

 

 

 


寒くないだろうか、すぐに誰か気付いてくれるだろうか

 


色々な心配事が頭をかけまわる。

 


身体が重く、立ち上がる事すら億劫だ。

 

 

 

 

 

 


・・・ ずず・ずずず・ずずりずるずる

 

 

 

 

 


誰も居ないはずの商店街の真ん中で、女が異音に気づき顔をあげると

 


女が歩いて来た方角から男が何かをひきずりながらこちらの方へ向かって来るのが見えた。

 


男は重そうに何かを引き摺りながら自分の行く手に座り込む女に視線を合わせた。

 

 

 

 

 


女はとっさに目を逸らし、胸の荷物を強く抱きしめた。

 

 


誰も居ない真夜中の場所では絶対関わりたくないタイプの男だった。

 

 

 

 

 


女の心情などおかまい無しに、男はひきずっていたナニかからあっさりと手を離し

 


女の方へ小走りに近寄って来た。

 

 

 

 


「ね、ね、煙草持ってない?」

 

 

 


女は立ち上がるのも忘れ、男の質問に答えた。

 

 

 


「も、持ってないです」

 

 

 

 


すると男はニヤニヤと笑いながらジーンズのポケットからつぶれた煙草を取り出して口にくわえ、火をつけた。

 

 


女が呆気にとられて男の煙草を見つめていると、男は女の視線に気づき、潰れた煙草を女に差し出した。

 

 

 

 


「煙草いる?」

 

 

 

 


女は首をふり、それと同時にすっかり忘れていた“立ち上がる”という行為を思い出した。

 


男は立ち上がった女をジロジロと眺め、さもおかしそうに女に訊ねた。

 

 

 

 


「ねね、何ヶ月?」

 

 

 


女は抱いている荷物を守るようにギュッと抱きしめた。

 


女は男の質問に答えるつもりもなく、軽く会釈してその場を立ち去ろうとした。

 

 

 

 


「午前3時に赤ん坊を抱えた女が一人」

 

 

 

 


男は女が向かう方向を指差し、ニヤニヤと笑いながらと煙草の煙を吐き出した。

 

 

 


「あそこに捨てに行くんだろ? あの教会だろ?」

 

 


男の言葉に女はギクリと身体を揺らし、思わずその場に立ち止まった。

 

 

 


「じゃさ。オレが拾うからココでくれよ、その赤ん坊」

 

 


男はニヤニヤと楽しげで、女は自分がやはり「ついてない」と、落ち込んだ。

 

 

 

 


「もう無理なんです、だから許して下さい」

 

 

 


男は女の意味不明な懇願に首をひねり、手を伸ばした。

 

 

 


「ね、ね、オレにくれよ、要らないんだろ?」

 

 

 


女は身をよじり、男の手から赤ん坊を守るようにしながらも男の言葉に感心していた。

 

 

 

 

 


確かに 。

 


どうせ、捨てに来たくせに。

 


この男には渡せないなんておかしな話だ。

 


捨ててしまった後は守る事など出来ないのは知っているのに。

 

 

 

 

 


女はなんだかとても馬鹿らしくなって、男の方に勢いをつけて振り返った。

 

 

 


「6ヶ月、男の子です」

 

 

 


眠っている赤ん坊の顔を男に見せるように、腕を緩めた。

 

 

 

 


男は満面の笑みで、赤ん坊を覗き込み、猫にでも話しかけるような声音で赤ん坊に話しかけてきた。

 

 

 


「男の子でちゅかーまるまるしてまちゅねー」

 

 

 

 

 

 


女は赤ん坊を見る時と同じ穏やかな笑顔で男にこう訊ねた。

 

 

 


「あの、今何時ですか? 駅ってもう開いていますか?」

 

 


男は急に真面目な顔をして、慌てたような口調になってこう言った。

 

 


「え? 帰るの? マジでオレにくれるの?」

 

 


男はそう言いながらぎこちなく赤ん坊に手を伸ばした。


女はさも可笑しそうに笑い声をあげ、手を顔の前で振った。

 

 

 


「あげませんよ? 帰るんです、二人で」

 

 

 

 

 

 


女は不思議に思っていた。

 


どうしてこの子を手放せるとさっきまで思えたのだろうと。

 

 

 

 


男は名残惜しそうに、口を尖らせ女に言った。

 

 

 


「ちょっ! なんだよ! 期待させんなよ!」

 

 

 


女は男の本当に残念そうな口ぶりに吹き出しそうになった。

 


男が悪態をつくほど、女は自分の中に力が沸き上がるような
この先もずっと頑張れるようなそんな気持になった。

 

 

 

 


「そんじゃ、やっぱり天国は無理かー」

 

 

 


男は悪い事ばかりしてきたから

 


子供でも育てないと天国には入れてもらえなさそうだと溜め息をついた。

 

 

 


今にも泣きそうな顔の男に

 


「行けますよ、天国」

 


女はまじめな顔できっぱりとそう言った。

 

 

 

 

 


「私がこの子を育てて、天国行きますから。そしたらあなたも天国に呼んであげますよ」

 


男は何か言いかけて、すうっと背筋を伸ばし、さも楽しそうに大きな声で笑った。

 

 

 

 


「天国って、コネ使えるのか?」

 

 


女は「さあ?」と、首を大げさに傾げ、いま来た道を戻る事を心の底から幸福に思った。

 

 

 

 

 


「絶対忘れるなよ、天国から呼べよ、絶対だぞ」

 


女は男の真剣なまなざしに、微笑みで応え、さっきとは逆の方角に歩き出した。

 


しっかりとした足取りで駅の方へと歩いていく女の後ろ姿を見つめながら男は考えていた。

 

 

 

 


天国にコネクションが出来たってのは、ラッキーだ。


いつまでもこんな同じ日々では、気が滅入るってもんだ。

 

 

 


「さて、と」

 

 

 


女の姿が見えなくなると、男はさっき放り出した大きな麻袋に手を伸ばし、来た時と同じようにひきずりはじめた。

 

 

 

 

 

 


しかし、なんだな。

 


オレ、かれこれどんぐらいこんな事してんだろ

 


自分の死体をひきずって、何処へ行くつもりなんだろ

 


あの教会へはいつまで経っても辿り着かないし

 


一本道で迷うはずもないっていうのに

 

 

 

 


まあ、仕方ない

 


あの女が死ぬまでの辛抱だ

 

 

 


男は鼻歌まじりで、麻袋をひきずり始めた。

 

 

 

 

 

 


男の天国へ向かう道のりは遠そうだ

 


だがしかし

 


誰でも

 


希望を持つ事だけは許されている