喜びのうた
あれから何度目の夏が過ぎた事だろう。
僕は夏が来る度、君の歌う調子っぱずれの“あの歌”を思い出す。
あの夏の日の思い出はなんだかとても不確かで、見失ってしまった所だらけだけど
後付けされた色彩のように、僕の心に焼き付いて離れない。
あの夏、僕らは偶然出会った。
「家庭の事情」と、いうクダラナイ事情で、ひと夏だけ1人で過ごす事になった僕は、小さな頃憧れていた海の綺麗なあの街を訪れた。
でも高校生の一人旅なんてものには何の計画性も無く、ただただ海を眺めるだけの退屈な日々を僕は送っていた。
「…イデ…ネルゲッテル…ケン…トホテル……エーリジウム…」
風に乗って聞こえてきた歌声に思わず耳を澄まし、盛大に吹き出した。
「ヘタクソ過ぎる」
お世辞にも上手いとは言えないその歌声に、悪態をつきながらも少なからず興味を持ってしまった僕だった。
「フロイデ シェーネルゲッテル フンケン トホテル アウス エーリージウム…」
知らず知らずに口ずさんでいる自分に気付き、笑い声をあげた。
知らない誰かのヘタクソな歌を憶えたりして、何の得になるのだろう?
こんなにヘタクソな歌に付き合ってやったんだから、顔くらい見てもバチは当たらないだろうと、歌声の聞こえてくるベランダから下を覗き込むと、真っ白な足がリズムを刻みながらブラブラ揺れていた。
「子供かよ」
などと、口では言いつつ、そのまっすぐに伸びた綺麗な白い足からは目が離せずにいると、歌声は急に止み“足”も同時にスルスルと引っ込んでいってしまった。
その時に浮かんだ退屈な毎日の密かな計画。
ヘタクソな歌声の……いや、あの綺麗な足の持ち主の顔を拝んでやろう。
しかし、旅自体無計画なこの僕に、計画性などあるわけがなく、そんな計画自体をすっかり忘れてしまい日々は流れた。
唯一憶えていたものといえば……そう、あの歌。
僕は気付くと、あの歌を口ずさむようになっていた。
「フロイデ シェーネルゲッテン フンケン トホテル アウス エーリージウム…」
知らない間に随分と大きな声で歌っていたのか、階下からこんな声が聞こえてきた。
「ねぇ~!! 上の人ーーー!!」
もしかして白い足?
急いで窓の下を覗き込むと、そこには真面目くさった顔の君が居た。
「その歌好きなの?」
初対面だというのになんの惑いも無く君は訊ねた。
「別に……。ってか、この歌って”第九”?」
君はうんざりしたようにため息をつき、僕の顔をしっかりと見つめながらこう言った。
「”喜びの歌”って言ってくれない? そして好きじゃ無いならそんな大声で歌わないで」
…クソ生意気な女だな。
僕はすっかり腹を立て、君の挑発に乗ってしまった。
「どっかのクソ女が、ヘッタクソ過ぎる歌を、大声で毎日毎日歌ってっから!」
そう言い放ち、窓を乱暴に閉めると、しばらくして部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「ドンドンドンドン! 」
まさか? と、思いながらドアを開けるとその「まさか」が立っていた。
「…何?」
君は自分の身体を抱くように腕組みしながら、僕の顔を不躾に見つめた。
「…ねぇ、あんた何才? 」
「…なんで?」
「見た目……んと、高校生? 」
「だからなんで? 」
「私、高校行って無いから……興味があって」
「あ、そう。んじゃ、正解。高校生。じゃ、そういう事で」
ドアを閉めようとした僕に君はある提案をした。
「遊びに行かない? 暇なんでしょ」
顔ではさも面倒臭そうにその提案を受け入れた僕は、その日からぶっ通しで、君とあの夏を過ごす事になった。
エキセントリックで無邪気な君は、僕のはじめてみるタイプの女の子だった。
はしゃいでいても、何処か悲しげに見える瞳の理由など知る由もない僕だった。
君について知った事。
あの階下のホテルの部屋には、一ヶ月滞在しているという事。
高校には行っていないという事。
「喜びの歌」が大好きだという事。
それ以外は名前さえ……本当だったのかも解らない。
「ねぇ。なんで1人でこんなへんぴな所に来たの? 」
君は抜けるような青い空をうんざりしたように見上げ、僕に訊ねた。
僕は君に習うようにうんざりした顔を作って
「家に居るよりはマシだから。別に特別な理由なんて無いよ」などと、かっこつけた。
じゃあ、君はなんで? と、聞きかけて止めた。
大人びた君に対して、僕は精一杯の背伸びをしたかったのだろうと今では思う。
シーズンでも人の少ない岩場で、君は調子っぱずれのあの歌をよく口ずさんだ。
「フロイデ シェーネルゲッテル フンケン トホテル アウス エーリージウム…」
なんだかまるで呪文みたいに繰り返す、君特有のメロディーが僕には心地よく、そして笑いのツボでもあった。
笑い声をあげる僕の事を、君はいつだって怒っていたっけ。
「じゃあ歌ってよ。次は私が笑う番でしょ? 」
何度も断ったが、結局歌う羽目になり、恥ずかしさを消すかのように声を張り上げ歌う僕の声は、
青い空と青い海にあまりにも不似合いで、笑い転げながら君の方を振り返った。
「笑えるっしょ? 」
そう言いながら君の方へ振り返った僕は驚いた。
まるで……君が泣いているように見えたから。
君はすぐにいつもの調子で、顔をあげて答えた。
「うん、爆笑」
君の微かに震えた声が悲しくて、僕はもう二度と君の前であの歌をは歌うまいと決めた。
「私、もう絶対に、こんな楽しい気持ちにはならないと思ってた」
突然言い出した君の言葉が嬉しくて、僕はとても誇らしい気持ちになったものだ。
君の口から語られる次の言葉を聞くまでの……ほんの一瞬だったけど。
君はこの海で恋人を亡くした。
その恋人が好きだった「喜びの歌」を君も大好きだった。
恋人が最期に滞在したあのホテルに泊まりに来て、恋人を飲み込んだあの海を眺めて過ごしていた。
本当に驚いたと君は言う。
ホテルの上の部屋から聞こえてきた僕の歌声が、恋人の声にあまりにも似ていたから。
そして、あのホテルの部屋で君は何度も願ったと言う。
「もう一度、彼に会わせて」と。
僕がそれを聞いた時、何を思ったかはもう忘れてしまった。
君の亡くした恋人に嫉妬したのか……間違いでも君の力になれた事を喜んだのか。
そう、今となっては定かではない。
愛だと恋だとか……。
今となってはもうよく分からないけど、君の事が大好きだった事は確かだ。
「こんな楽しい夏はもう来ないんだろうなぁ」と、つぶやいては翳りを帯びる君の瞳が切なくて。
僕は君の望みならすべて受け入れたいと、本気で思い込んでしまったのかな。
君の細い首をゆっくりとこの手で絞める事さえ、あの夏の僕には簡単な事だった。
「私、決めてたの。次に楽しいと心から思えたら……こうしようって」
君はそう言って、僕の手をとり、君の首にまわした。
「ほーんと苦しかったんだ。だけど欲深いね……あんな悲しい気持ちで終わりたくもなかった」
僕の手に重ねられた君の手に導かれるまま……僕は自分の指に力をこめたんだ。
あれから何度目の夏が過ぎたのか……忘れてしまったけれど、今でも時々あの歌を口ずさむ。
「フロイデ シェーネルゲッテン フンケン トホテル アウス エーリージウム…」
君は“あの夏”のまま、まだあの景色の中にいるのだろうか。
君が言った通り、“あの夏”より楽しい夏なんて。
ホントに、一度も無かったよ。